「著作権法50年を振り返って」(田村善之、髙部眞規子、中山信弘ほか)を読んで

論究ジュリスト 2020年夏号は著作権法の特集です。

その一番最初の記事は、知的財産法の大家である中山信弘先生と、その一番弟子田村善之先生に加え、現在の知財高裁を牛耳っている髙部眞規子判事のほか、秋山卓也先生、成原慧先生、福井健策先生らによる座談会でした。

田村善之先生と髙部眞規子判事が同じ場で議論されたりするという話はよく伺うものの、そこに中山信弘先生も加え、紙面でこのような形で記事になるというのは、なかなか珍しいことなのではないでしょうか。

そこでは、次のような内容でお話が進められました。

Ⅰ.著作権法制の抱える課題
Ⅱ.著作権法の立法の歴史を振り返る
 1 .プログラムを著作物として認めるか否か
 2 . 私的録音録画補償金請求権の創設とその後の運用について
 3 .著作権の存続期間の延長について
 4 .著作権の一般的制限条項の導入について
 5 .ダウンロード違法化問題について
Ⅲ.著作権の裁判例の歴史を振り返る
 1.江差追分事件 ― 類似性
 2 .パロディ・モンタージュ事件 ― 引用
 3 . カラオケ事件・(まねきTV事件・)ロクラクⅡ事件 ― 侵害主体論
Ⅳ . NGOその他のステークホルダーについて
Ⅴ .最後に

「Ⅱ.著作権法の立法の歴史を振り返る」について

 一番初めから、このメンバーの間で見解の対立がありそうな「プログラムの著作物」についての議論。中山先生はじめとして、学界からは、本来プログラムというのは同一方向に収束していくものなので、著作権法ではなく、回路を構成する仕組みを記述しているものとして、特許法等の保護領域とすべきであるという意見が強い状況にありました。それにもかかわらず、政府の意向で押し切られて、プログラムの著作物というのが著作権法に項目として設けられたもの。

 座談会においては、プロパテントかつプロ著作権の気質をもつ高部判事と、中山先生の見解の対立がやはり面白いところでした。他方で、高部判事も中山先生の「表現の幅」に意を払っているとのこと。

 それからやはり、著作権の保護期間延長(現在では70年)というのもやり玉に挙げられています。まあ、たしかに、ディズニーの利益のためだという風潮を踏まえると、反対したくなる気持ちもわかりますし、また、そもそも人格権の発露の側面を持ちつつ、創作のインセンティブをもたらすための著作権について、死後にそこまでの長期間保護すべき必要性があるかというと、疑念をおぼえます。私としても、その本質を踏まえると、著作権の保護期間が70年もの長きにわたり、保護されるべきではないと思います。他方で、クールジャパン路線でコンテンツを売りにしたい日本にとっては、著作権の保護期間が伸びることは一概に悪いことだとはいえないと思います。特に、近年、中国をはじめとした、かつての「発展途上国」において、コンプライアンス意識が高まっていますから、著作権の保護が強化されることは、日本のコンテンツ産業にとって、海外からの収益を上げやすくなることにもつながると思うからです。まあ、これは、あくまでも利益衡量的な考え方であって、知的財産法における本来の思考からすると、これは歪んだ考慮要素なんだと思いますけれど…。

 個人的にはやはり、情報流通を円滑化も重視すべきで、著作権を強化しすぎるのはそのような観点から望ましくないことだと思います。パブリックドメインを、創作者自ら創り出すという動きは今も強く存在していますが、パブリックドメインの確保は、創作者自身の意図に強く依存するというよりは、本来、法制度の側で自由な領域を確保すべきであると考えるからです。

 それから更に話題になっているのが、著作権の一般的制限条項です。アメリカでいう「フェアユース規定」のようなものを日本で取り入れるべきかということですね。

 これについて、最近多く聞くのが「日本でもフェアユース規定を取り入れるべきだ」という議論です。このこと自体には共感をおぼえつつ、他方で、フェアユース規定はそこまで便利なものではないということにも留意すべきです。権利制限規定としてフェアユース規定が存在するわけですが、そこでいう「フェアユース」とは何なのか、その定義が曖昧である以上、萎縮効果を排除することはできないからです。現在の日本の著作権法のように、細かく権利制限規定が列挙されている場合とは真逆の状態になるのです。したがって、このような不利益を考慮して、たとえフェアユース規定のようなものが導入されたとしても、これまでのように、権利制限規定を細かく列挙するということも継続される必要があると思います。

 それから、もうみんなが疲れ果てた雰囲気が感じられる「ダウンロード違法化問題」。これについては、私の意見を何か述べるよりも、本誌において、それぞれのアクターがどのような考え方で動いていたのか、お読みいただいた方がいいかもしれません。

「Ⅲ.著作権の裁判例の歴史を振り返る」について

 江差追分、パロディ事件、カラオケ事件、ロクラク・まねきという、著作権法の転換点となるべき判例が扱われているので、それだけでこの座談会は意義があるように思います。

 個人的に、最近気になっているのは、クラブキャッツアイ事件と、ロクラク・まねき事件判決との関係性です。

 以前、島並先生が書かれていた記事では、クラブキャッツアイ事件におけるいわゆる「カラオケ法理」というのは、間接侵害の一類型であって、ロクラク・まねきは、直接侵害か間接侵害かをわけるその前の分水嶺として機能するという論説を読んだことがありました。それを読んだときは、そのときで納得したものですが、改めて考えてみると、カラオケ法理にしても、ロクラク・まねきにしても、いずれも侵害主体の議論をしていて、そのような議論の次元の違いがあると考えるのは難しいのではないかと思い至るようになりました。

 今回の座談会でもやはり、この2つを、判断レベルの違う判例として扱ってはいないように思います。また、この座談会の中で中山先生がロクラク・まねきという「2つの最高裁判決が出たからこれでいいか、ということで、それまで進んでいた間接侵害への議論も頓挫したということは、大変遺憾なことだと思っております」と述べられているのも興味深い点です。

全体として

 この記事は座談会形式なので、主張の異なるそれぞれの方々が、自分の意見を述べていて発散している感じもありますが、むしろそれこそが現在の著作権法ひいては知的財産法をめぐる状況をそのまま表しているようでもあります。

 この記事自体から体系的な何かを習得することはできませんが、現状を認識するためのひとつの文章として、とてもおもしろい記事だと思います。 

論究ジュリスト 2020年夏号(34号)