第3章:環境正義(Environmental Justice)

ESGの議論が深まるにつれ、「環境(E)」と「社会(S)」の2つの柱が交差する領域として、「環境正義(Environmental Justice)」という概念が重要性を増しています。米国環境保護庁(EPA)によれば、環境正義とは「人種・肌の色・国籍・所得にかかわらず、全ての人々が、環境に関する法令・規制・政策の策定・実施・執行において、公正に扱われ実質的に関与すること」と定義されます 。これは、歴史的に低所得者層やマイノリティのコミュニティが、産業汚染や廃棄物処理施設といった環境負荷を不均衡に押し付けられてきたという現実に対する、根源的な問い直しを求める運動です。

かつては市民活動家や一部の学者の間で語られるテーマであった環境正義は、今や企業の事業活動、特に施設の立地選定・許認可・コンプライアンスに直接影響を及ぼす、看過できない経営リスクへと変貌を遂げました。

1. 環境正義の歴史的背景:公民権運動から連邦政策へ

環境正義運動のルーツは、1960年代のアメリカ公民権運動にまで遡ります。その直接的な契機となったのが、1982年にノースカロライナ州のウォーレン郡で起きた、有害物質PCBに汚染された土壌の処分場建設に対する住民の激しい抗議運動でした。この地域は、住民の大半をアフリカ系アメリカ人が占めていました。この事件をきっかけに、米国会計検査院(GAO)が実施した画期的な調査では、南東部の有害廃棄物処分場が、黒人コミュニティに偏って立地しているという衝撃的な事実が明らかにされました。

この調査結果は、環境問題が人種や所得といった社会的属性と深く結びついていることを社会に広く知らしめ、環境正義という新たな社会運動の礎となりました。こうした動きを受け、連邦政府も徐々に対応を始めます。1994年、クリントン大統領は大統領令12898号に署名し、すべての連邦機関に対し、「その使命の一部として環境正義を達成すること」を義務付けました。これにより、連邦政府の許認可プロセスや環境影響評価(NEPAプロセス)において、マイノリティや低所得者層への不均衡な影響を考慮することが初めて公式に求められるようになったのです。

しかし、その後、環境正義に関する連邦政府の取り組みは、政権によって温度差があり、必ずしも一貫して推進されてきたわけではありませんでした。

2. バイデン政権の「政府一体」アプローチ

バイデン大統領は就任直後から、環境正義を政権の最重要課題の一つとして明確に位置づけました 。その象徴が、気候変動対策に関する包括的な大統領令14008号です。この大統領令は、単に環境政策を強化するだけでなく、その恩恵がこれまで取り残されてきたコミュニティに確実に行き渡るようにするための、具体的な仕組みを導入しました 。

Justice40イニシアチブ

バイデン政権の環境正義政策の核心をなすのが、「Justice40イニシアチブ」です。これは、気候変動・クリーンエネルギー・持続可能な交通・水インフラ等、特定の連邦政府の投資プログラムについて、その便益全体の40%を、環境汚染や社会経済的な脆弱性といった複合的な問題を抱える「不利な立場にあるコミュニティ(Disadvantaged Communities)」に届けることを目標とする取り組みです。

この「不利な立場にあるコミュニティ」を特定するために、「気候・経済的正義スクリーニングツール(Climate and Economic Justice Screening Tool – CEJST)」が開発されました。このオンラインツールは、国勢調査区(census tract)単位で、環境・気候、健康、社会経済、住宅などに関する複数の指標を組み合わせ、支援を優先すべき地域を可視化するものです。

EPAの役割強化と執行の厳格化

環境正義政策の実行において中心的な役割を担うのがEPAです。バイデン政権下で、EPAはその権限を最大限に活用し、環境正義の実現に向けた取り組みを加速させました。

2022年9月、EPAは「環境正義・外部公民権局(Office of Environmental Justice and External Civil Rights)」を新設しました。この新オフィスは、EPA全体のプログラムや政策に環境正義の視点を組み込むとともに、公民権法第6編に基づき、EPAから連邦資金援助を受ける州や地方の機関が、人種や国籍を理由に差別的な影響をもたらす行為を行っていないかを監視し、是正する強力な権限を持ちます。

さらに、EPAの執行・コンプライアンス保証局(OECA)は、環境正義の観点から懸念のあるコミュニティにおける法執行を強化する方針を明確にしています 。具体的には、これらの地域における施設の抜き打ち査察を増やし 、違反が発覚した場合には、地域社会に直接的な便益をもたらす是正措置を積極的に求めるとしています 。

許認可(パーミッティング)への影響

環境正義の原則は、工場の新設や拡張に伴う許認可プロセスにも大きな影響を与え始めています 。連邦機関は、NEPAに基づく環境影響評価において、プロジェクトが不利な立場にあるコミュニティに与える累積的な影響(cumulative impacts)をより厳格に評価することが求められています。これは、単一のプロジェクトの影響だけでなく、既存の汚染源と相まった複合的な影響を考慮に入れることを意味し、許認可のハードルを実質的に引き上げる可能性があります。

3. 州・地方レベルでの先進的な取り組み

連邦政府の動きと並行して、いくつかの州では環境正義を法制化する先進的な取り組みが進んでいます。

ニュージャージー州:累積的影響を考慮した許可審査

2020年に成立したニュージャージー州の環境正義法は、全米で最も強力な法律の一つとされています。この法律は、発電所・焼却炉・大規模倉庫といった特定の種類の施設の新設・拡張許可を申請する際に、事業者が「過重な負担を負うコミュニティ(overburdened communities)」に対する環境・公衆衛生上の影響評価書を作成することを義務付けています 。

さらに画期的なのは、州の環境保護局(NJDEP)が、その評価に基づき、プロジェクトが既存の環境汚染と相まって不均衡に著しい悪影響を及ぼすと判断した場合、その許可を拒否できる権限を与えられている点です。

カリフォルニア州:コミュニティ主導の大気汚染対策

カリフォルニア州は、長年にわたり環境正義政策の先進地でした。2017年に成立した州法AB617は、特に大気汚染の負荷が高いコミュニティを特定し、地域住民、地方政府、そして事業者自身が協力して、コミュニティ主導の排出削減計画を策定・実施することを定めています。

また、同州の司法長官室には環境正義局が設置されており 、州の環境法を執行する中で、環境正義の観点を積極的に取り入れています 。

4. 気候変動、株主行動主義と環境正義の交差点

環境正義は、ESGの他の主要なテーマ、特に気候変動対策や株主行動主義と深く結びつき、その影響力を増幅させています。

気候正義(Climate Justice)とインフレ削減法(IRA)

気候変動の影響は、すべての人々に等しく及ぶわけではありません。熱波・洪水・海面上昇といった物理的リスクは、地理的・社会経済的に脆弱な立場にあるコミュニティにより深刻な被害をもたらします。この不均衡な影響を是正し、低炭素社会への移行が公正な形で行われるべきだという考え方が「気候正義(Climate Justice)」です。

この気候正義の理念を具現化したのが、2022年に成立したインフレ削減法(IRA)です。この法律は、アメリカ史上最大規模の気候変動対策投資を盛り込んでいますが、その多くが環境正義の達成に資するよう設計されています。具体的には、低所得者層コミュニティやネイティブアメリカンの居留地に立地するクリーンエネルギープロジェクトに対する追加の税額控除や、不利な立場にあるコミュニティにおける大気汚染の緩和や気候変動への強靭性(レジリエンス)向上のためのプロジェクトに、総額600億ドルを超える直接的な資金援助を行うことなどが含まれています。

株主による圧力

投資家や株主も、企業に対して環境正義への取り組みを求める声を強めています。株主擁護団体「As You Sow」は、企業の人種的正義に関するパフォーマンスを評価するスコアカードを公表し、その中で事業活動がマイノリティコミュニティに与える環境影響を重要な評価項目の一つとしています。

また、労働組合系の年金基金やESG投資ファンドからは、企業に対して、独立した第三者による環境正義監査公民権監査の実施を求める株主提案が相次いで提出されています 。