ESGの「社会(S)」と「ガバナンス(G)」が交差するのが、取締役会の多様性(Board Diversity)です。企業の最高意思決定機関である取締役会の構成は、その企業の価値観・戦略・社会との関わり方を映し出す鏡です。伝統的に同質性の高かった役員に、ジェンダー・人種・民族・性的指向といった多様性をもたらそうとする動きは、近年、規制当局・証券取引所・機関投資家からの強力な後押しを受け、コーポレート・ガバナンス改革の中心的課題へと押し上げられました。
しかし、この動きは一枚岩ではありません。多様性を積極的に推進しようとする力と、その手法が法の下の平等に反するとして強く抵抗する力との間で、激しい攻防が繰り広げられています。本章では、取締役会の多様性をめぐる構図を、ナスダック(Nasdaq)の上場規則とカリフォルニア州の法律という2つの観点、それらに対する法的・政治的なバックラッシュを中心に解説します。
1. 取締役会多様性を推進する2つの力
① 証券取引所による後押し:ナスダックの多様性規則
2021年8月、SECはナスダック証券取引所が提案した、上場企業に取締役会の多様性に関する情報開示を義務付ける新しい上場規則を承認しました。これは、アメリカの証券取引所として初めての、体系的な多様性推進ルールでした。
この「ナスダック多様性規則(Nasdaq Board Diversity Rule)」の核心は、「コンプライ・オア・エクスプレイン(Comply or Explain:遵守または説明)」というアプローチにあります。これは、企業に特定の取締役構成を強制するのではなく、目標を達成できない場合にはその理由を投資家に対して説明する責任を課すという柔軟な枠組みです 。
具体的には、ナスダック上場企業は以下の2点を求められます。
- 情報開示: 標準化されたテンプレートを用いて、各取締役のジェンダー・人種・民族・LGBTQ+としての自己認識に関する統計情報を年次で開示すること 。
- 遵守または説明: 段階的な移行期間を経て、最終的に「女性と自己認識する取締役を1名以上」かつ「過小評価されてきたマイノリティ(Underrepresented Minority)またはLGBTQ+と自己認識する取締役を1名以上」という目標を達成すること。もし達成できない場合は、その理由をプロキシーステートメント(株主総会招集通知)等で説明します。
この規則は、多様性を直接義務付ける「クオータ(割り当て)制」とは一線を画し、あくまで情報開示と透明性を通じて、市場の力によって企業の自主的な変革を促すことを目的としています。
② 州法による大胆な試み:カリフォルニア州の多様性義務化法
ナスダックが市場主導のアプローチを取ったのに対し、カリフォルニア州はより直接的な法律による義務化という道を選びました。
2018年に成立した州法SB826は、カリフォルニア州に主要な経営拠点(principal executive offices)を置く上場企業に対し、取締役会に最低1名以上の女性取締役を置くことを義務付け、取締役会の規模に応じてその人数を増やすことを要求しました。
さらに2020年には、州法AB979が成立しました。これは、同様の企業に対し、「過小評価されてきたコミュニティ(underrepresented communities)」出身の取締役を最低1名以上登用することを義務付けるものでした。ここでいう「過小評価されてきたコミュニティ」とは、アフリカ系・ヒスパニック系・アジア系・ネイティブアメリカンなどの人種・民族的マイノリティや、LGBTQ+と自己認識する個人を指します。
これらの法律は、違反した企業に罰金を科すという強制力を伴っており、DE&Iを企業の自主的な取り組みから、明確な法的遵守義務へと引き上げた点で、全米の注目を集めました。
2. 法的・政治的なバックラッシュ:平等の名の下の抵抗
しかし、これらの先進的な取り組みは、保守的な立場から強い法的・政治的な反発に直面することになります。その中心的な論点は、これらの多様性推進策が、個人の属性(ジェンダーや人種)に基づいて人々を異なる扱いするものであり、合衆国憲法・州憲法が保障する「法の下の平等(Equal Protection)」に違反するという主張でした。
カリフォルニア州法、違憲判決により頓挫
カリフォルニア州の2つの多様性義務化法は、保守系の司法擁護団体などによって相次いで提訴され、2022年、カリフォルニア州上位裁判所は、相次いでこれらの法律に違憲判決を下しました。
Crest v. Padillaと題された2つの訴訟で、裁判所はほぼ共通のロジックを展開しました。すなわち、これらの法律は、取締役候補者をジェンダーや人種といった「疑わしい分類(suspect classifications)」に基づいて区別しており、このような差別を正当化するためには、州政府が「やむにやまれぬ政府の利益(compelling government interest)」が存在することを証明しなければならないところ、州政府が主張した「過去の差別を是正する必要性」や「多様性がもたらす経済的便益」といった理由は、この厳格な審査基準をクリアするには不十分であると判断されました。
裁判所は、取締役会における多様性の欠如が、過去の意図的な差別によるものであるという具体的な証拠が州から提出されていないと指摘しました。これらの判決は、たとえ社会的に望ましい目的のためであっても、法律によって事実上のクオータ制を導入することの法的な困難さを浮き彫りにしました。
ナスダック規則を巡る法廷闘争
ナスダックの多様性規則もまた、保守系の非営利団体などによって連邦第5巡回区控訴裁判所に提訴されました。
原告側の主張の核心は、カリフォルニア州の訴訟と同様、この規則が人種やジェンダーに基づく差別的な分類を企業に強いるものであり、法の下の平等に違反するというものです。さらに彼らは、SECがこの規則を承認したことは、議会から与えられた権限を逸脱しており、また、企業に特定の政治的・社会的メッセージの開示を強いることは、合衆国憲法修正第1条が保障する「表現の自由」を侵害するとも主張しています。
これに対し、SECとナスダックは、この規則はあくまで情報開示を求めるものであり、特定の人物を取締役に選任することを強制するものではないと反論しています。また、ナスダックは民間企業であり、その上場規則は「政府の行為(state action)」ではないため、憲法上の平等原則の直接的な適用は受けないとも主張しています。
この訴訟には、テキサス州やフロリダ州など共和党系の17州の司法長官が原告側を支持する意見書を提出する一方、ACLU(アメリカ自由人権協会)や大手機関投資家グループがナスダック側を支持するなど、アメリカ社会の分断を象徴する様相を呈しました。