第5章:法的因果関係

あれなければこれなしという「事実上の因果関係」が証明されたとしても、それだけで直ちに被告の責任が確定するわけではありません。不法行為法は、責任が無限に拡大することを防ぐため、もうひとつのフィルターを設けています。それが「法的因果関係(Legal Cause)」ないし「Proximate Cause」(「近因」と訳されることもあります)と呼ばれる概念です。

この要件は、被告の行為と損害との間に、単なる物理的な連鎖だけでなく、法的に見て責任を課すに値するだけの「近さ」や「結びつき」があるかを問うものです。事実上の因果関係が「もし…でなければ」という科学的な問題であるのに対し、法的な因果関係は「被告の責任範囲はどこまで及ぶべきか」という政策的(policy-based)な問題です。その目的は、被告の責任を、公平かつ社会的に許容できる範囲に限定することにあります。

1. 法的因果関係の判断基準

法的因果関係の多くは、以下の2つの基準によって処理されます。これらの基準は、被告の責任を、その過失行為が社会的に非難される理由となったリスクと結びつけることを目的としています。

A. 予見可能性テスト(The Foreseeability Test)

現代の法的因果関係の分析において、最も支配的な基準が「予見可能性(Foreseeability)」です。この基準では「被告が過失行為を犯した時点で、原告が被った損害と概ね同種の損害が発生することが、合理的に予見可能であったか」が問題となります。

例えば、被告が赤信号を無視して交差点に進入し、衝突事故を起こした場合を考えます。信号無視という行為が過失と評価されるのは、まさに衝突事故という種類(type)の危害を引き起こすことが予見可能だからです。したがって、現実に衝突事故が起き原告が負傷した場合、その損害は予見可能であったと言え、法的因果関係は肯定されます。

重要なのは、被告が損害発生の正確な態様(manner)正確な程度(extent)まで予見している必要はないという点です。必要なのは、あくまで生じ得る損害の類型が予見可能であったことです。

B. The Harm-Within-the-Risk Test

予見可能性テストをより洗練させ、その本質を明確にしたのが「リスク内危害テスト」です。この基準では、「原告が被った損害は、そもそも被告の行為を『過失』であると特徴づけた複数のリスクのうちの1つが現実化したものか?」が問題となります。日本の刑法学における「危険の現実化」の議論とも似ています。

この基準は、例えば次のような事例で有効です。被告が消火栓の前に違法駐車したとします。この行為が過失ありと評価されるのは、火災が発生した際に消防士が消火栓を迅速に使用できず、火災による損害が拡大する「リスク」を生み出すからであるとしましょう。このような状況下において、火災ではなく、この違法駐車のせいでたまたま通りかかった原告の車の視界が遮られたことにより別の車との衝突事故が起きたとします。

この場合、被告の違法駐車は事故の事実上の原因(But-For Cause)ではあるかもしれません。しかし、Harm-Within-the-Riskを適用すると、法的因果関係については異なる結論が導かれます。原告が被った「衝突事故」という危害は、被告の行為を過失たらしめた「火災損害の拡大」というリスクとは全く関係がありません。したがって、被告の過失と原告の損害との間に法的因果関係は認められないことになります。

このように、Harm-Within-the-Riskテストを用いることによって、被告の義務違反(なぜその行為が過失だったのか)と、発生した結果とを論理的に結びつけ、責任範囲を適切に限定する適切な分析ができるようになります。

2. 予見不可能な結果を巡る発展的論点

法的因果関係の判断が難しくなるのは、予見の範囲を大きく超えたり全く異質な結果が被告の過失行為から生じた場合です。裁判所は、長年にわたる判例の蓄積を通じて、こうした困難な事案に対処するための類型的なアプローチを発展させてきました。

A. 予見不可能な被害者:Palsgraf 事件の射程

「予見不可能な被害者(unforeseeable plaintiff)」は、ニューヨーク州控訴裁判所のPalsgraf v. Long Island Railway 事件において問題となりました。

事件の概要は次のとおりです。駅のプラットフォームで、発車しようとする列車に駆け乗ろうとした男性客を、鉄道会社の従業員が後ろから押し上げて手助けしました。その際、男性が抱えていた新聞紙の包みが線路に落ち、中に入っていた花火が爆発しました。その爆発の衝撃で、プラットフォームの反対側の端にあった重い秤が倒れ、近くに立っていたパルスグラフ夫人(原告)が負傷しました。

多数意見は、鉄道会社の責任を否定しました。その論理は、法的因果関係の問題としてではなく、より根源的な「義務(Duty)」の問題として構成されました。多数意見を書いたカルドーゾ判事によれば、過失責任とは、特定の他者との関係性において成立するものです。行為者は、自らの行為によって危険にさらされる可能性のある、予見可能な範囲(zone of danger)にいる人々に対してのみ、注意義務を負います。パルスグラフ夫人は、従業員が乗客を助けた場所から遠く離れており、その行為によって危害が及ぶとは到底予見できませんでした。したがって、鉄道会社はそもそもパルスグラフ夫人に対して注意義務を負っておらず、義務違反(過失)も成立しないと結論づけたのです。

これに対し、アンドリュース裁判官は反対意見で、義務は特定個人に対してではなく、社会一般に対して負うものであると主張しました。そして、一度過失行為があれば、そこから生じたすべての直接的な結果について責任を負うべきであり、責任をどこで打ち切るかは、予見可能性だけでなく結果との直接性・因果の連鎖の自然さ・公平・社会政策といった要素を考慮して柔軟に判断されるべき事実問題であり、陪審員に委ねられるべきだと論じました。

Palsgraf 事件におけるカルドーゾの「義務」アプローチは、その後のアメリカ法において支配的な考え方となりました。Palsgraf 事件は、被告の責任がその過失行為によって合理的に危険にさらされた人々に限定されるという原則を確立しました。

B. 予見不可能な損害の程度:エッグシェル・スカル・ルール

被害者が予見可能な範囲にいたとしても、その被害者が特異な身体的・精神的脆弱性を持っていたために、通常では考えられないほど甚大な損害を被ることがあります 。この問題に対処するのが、「エッグシェル・スカル(卵の殻のような頭蓋骨)・ルール」です。

このルールは、「加害者は、被害者をあるがままの状態で受け入れなければならない(The defendant takes his victim as he finds him.)」という法格言に集約されます。つまり、被告の過失行為が、健康な人であれば軽い打撲で済んだはずのところ、被害者がたまたま脆い頭蓋骨を持っていたために死亡に至ったとしても、被告はその死亡という予見不可能な「程度」の結果のすべてについて責任を負います。

このルールは、Palsgraf の原則とは一見矛盾するように見えます。しかし、両者の間には決定的な違いがあります。Palsgraf では被害者自身が予見不可能であったのに対し、エッグシェル・スカル・ルールが適用されるのは、被害者への何らかの危害は予見可能であった場合です。一度、罪なき被害者に対する義務の境界線を越えた加害者に対し、その結果の重大性に関するリスクを負担させることになります。

C. 予見不可能な損害の種類と態様

最も判断が難しいのが、被害者は予見可能であったものの発生した損害の「類型(type)」が全く予見不可能であった場合です。例えば、被告が過失により船の甲板から厚板を船倉に落としたとします。厚板が落下すれば、船体や積荷に物理的な損傷を与えることは予見可能です。しかし、実際には、厚板が落下した際に火花が散り、船倉内にあった可燃性のガスに引火して、船全体が爆発・炎上したとします。この「火災による損害」は予見可能だったと言えるでしょうか。

かつてのイギリスの判例 In re Polemis は、過失行為の「直接的」な結果であれば、たとえ予見不可能であっても責任を負うという「直接結果テスト」を採用しました。しかし、この考えは、その後の The Wagon Mound によって否定されました。The Wagon Mound は、責任は予見可能な「種類」の損害に限定されるべきであると判示し、予見可能性を法的因果関係判断の中心に据える現代的なアプローチを確立しました。アメリカの裁判所の多くは、この Wagon Mound の考え方に近い立場をとりますが、損害の「類型」と「程度」の区別はしばしば曖昧であり、多くのケースは陪審員の判断に委ねられます。

また、損害の類型が予見可能であったとしても、その発生の「態様(manner)」が奇妙で予見不可能であった場合はどうでしょうか。裁判所は一般に、損害の一般的な種類が予見可能である限り、その発生に至るまでの正確な筋道が奇妙であったとしても、法的因果関係を否定しない傾向にあります。

3. 法的因果関係の機能:責任の最終的な調整弁

法的因果関係を巡る上訴裁判所の判決文は、しばしば高度に理論的で、概念的な迷宮のように見えます。しかし、この法理の現実の機能はより実践的なものです。

第一に、法的因果関係は、裁判官が、責任を問うにはあまりにも結果がかけ離れていると判断する事件を、陪審員の判断に付すことなく法的な問題として処理するためのツールとなります。

第二に、事件が陪審員に付された場合、法的因果関係は、陪審員が自らの常識と公平の感覚に基づき、被告に責任を負わせることが本当に妥当かどうかを判断するための、最終的な調整弁として機能します。陪審員説示において、法的因果関係はしばしば「自然で連続した連鎖」といった曖昧な言葉であえて説明されます。これは、陪審員に対し、機械的にルールを適用するだけでなく、事件の全体像を見て、被告の行為の非難可能性の程度・結果の重大さ・両者の間の道徳的な繋がりを総合的に評価し、コミュニティの感覚に照らして公正な結論を導き出す裁量を与えることを企図しています。